さよならだけが人生ならば(たきで)

お久しぶりですたきでです。久しぶりに書きます。

今回は最近の悩みの話を一つしましょう。

初対面の人と話す機会やそれまであまり喋ったことがなかった人と何かのきっかけで話が盛り上がる機会ってたくさん訪れますよね。

その度に、趣味や、出身地、バイトや学校・仕事の話、好きな映画や音楽、旅行の話、食べ物の話、色々なことで盛り上がりますよね。

しかし、一時的に盛り上がったものの、次第にそれらの話題が一通り終わって、ダレる瞬間がいずれ訪れるものです。

例えばメールやLINEだと、初めのうちは内容があって返信速度も割とマメなのに、だんだん遅くなって短文になっていきます。それに伴い、会話の中に疑問形がなくなっていきます。そうして、やがて終わりがきます。

一通りの話が出来たってことはお互いのことがある程度分かったはずなのに、それで疎遠になっていく。ということは、「自分の人間性が受け入れられなかったんじゃないか、合わなかったんじゃないか」、そんな事実だけが残ってしまうような気持ちになってしまいます。理解し合えたと思ったのに、理解なんてしきれてなどいなかったと途方に暮れてしまいます。

だから、最近は会話が盛り上がっている時ですら、この会話が一段落したら僕達の関係はどうなってしまうんだろうか、近づいた分逆に距離が空いてしまうんだろうかと終わりを考えてしまい不安になってしまいます。それならば、自分の話なんてしなけりゃ良かったのかななんて考えてしまいます。

そりゃ人と人には相性があって、いくらでも会話が続けられるような関係が理想なのは分かっています。だけど、相性だけで済ますのはとても寂しいことだと思うのです。 

 

きっとこれが考えすぎなことくらい自覚しています。

 

しかし、それでもやはり人と人は話さないと繋がれないと思います。

「さよならだけが人生だ」という言葉が井伏鱒二の訳の勧酒にありますが、それに対して「さよならだけが人生ならば」と返した寺山修司の幸福が遠すぎたらという詩があります。

そうです、一通り話してまた疎遠になるとしても本当にそれだけで終わりなのかと問えばそれだけではないはずなんです。

人と人との繋がりは話題の豊富さなんかじゃ推し量れないはずなのに、気づいたら会話を続けるのに必死でそんな単純なことも見失いそうになっていました。

せめて僕の方だけでも相手のことを尊重して接し続けていれば、返してくれる人はいるはずだと、僕は信じようと思います。