おじいちゃん(たきで)

昨日は母方のおじいちゃんの17回忌だった。

つまり、おじいちゃんは僕が5歳だった頃にいなくなったわけでおじいちゃんの記憶が僕にはほぼない。

唯一覚えている事としておじいちゃんは、末期に1度退院した後、すぐに入院して亡くなった。その時に「おじいちゃん退院おめでとう会」をおばあちゃんの家でやって枝豆をおじいちゃんが食べていたことがなぜか記憶に残っている。

それからというものおばあちゃんの家に行く度に仏壇に手を合わせたり、年に1度は墓参りに行ったりしていたものの、おじいちゃんの存在は遠いもので「僕も頑張るよ。」などとおじいちゃんがどんな人かだったかもよく分からないまま念じてきた。

 

だけど今日「親が子供に教えた生き方をその子供が親になった時に子供に伝えていく。つまりそれは自分がいなくなった後も自分の生き方が先の子供達にまで残るということ。だから、この方の生き方もここにいる皆さんにきっと根付いている、DNAに刻まれているはずです。」というお坊さんの言葉を聞いてはっとさせられた。

おじいちゃんは物心ついた時から、

遠くに行ってしまった存在なんだと思って生きてきたけど、

僕が小さい頃から僕の母親を介して、ずっと僕のそばに居てくれて生き方を支えてくれてたんだなって。

最近投げ出して逃げてしまいたいこと、どうしようもないこと、もう取り返しのつかないことが多くて、投げやりに毎日を送ってしまっていたけれど、

おじいちゃんが残してくれたそばにあるものを大切にしてもっと丁寧に生きようと思った。

好きか嫌いか(とまと)

前回の更新から1週間を過ぎてしまったとまとです。
多忙のたきでが投稿を止めてしまったことにより、これほど期間が空いてしまいました。
自分はいつも通り、出来る範囲で書いていきます。


自分の投稿を読み直すと、前回書いた文章はふざけ過ぎていましたね。
今回はもうちょっと落ち着いた文章にしていきたいと思います。


最近、蒸しぱんを食べました。
コンビニやスーパーで見かけるやつです。
あれは美味しいですね。
私の家族はみんな好きです。


しかし、もし好きな食べ物を1つ選べと言われても、蒸しぱんを挙げるかといえば何か違う気がします。


まず、好きな食べ物がいろいろあるので、1つに選ぶことができません。
蒸しぱんも好きですし、てんぷらもラーメンもかぼちゃの煮物も…といくらでも挙げることが出来ます。
たぶん私の家族もみんなそうなので、食事をするときに意見が偏らず、あまり困りません。


まぁ嫌いな物はそれぞれ別にあって、自分はにおいの強いあれだとか、家族はモサモサしたあれ、妙に柔らかいあれなどが嫌いで、全然そろっていません。
しかし、嫌いなものが違っても選択肢が少し狭くなるだけで、一緒に食事が出来ないということにはなっていません。


おそらく大体の人は嫌いな食べ物がありますが、食べられる物が多い方が得だと思います。
今、自分が嫌いだとしている食べ物のおいしさを理解できないというのは損をしているように感じられるからです。
ただし、嫌いを乗り越えて好きになりたいとかではないので、ある日突然味覚が変わって好きになった!とかじゃなければ、多分食べることはないです。


このままでは食べ物談義で終わってしまう……
強引ですが話を変えて、人の好き嫌いについて考えてみます。


……とりあえず考えてみましたが、嫌いな人と言われて思い浮かぶ人がいませんでした。
話が終わっちゃいましたね。


苦手なタイプの人、というのはありますが、それは嫌いとは違う気がします。
これは周りの人が良い人ばかりなのでしょうか。


あーこれじゃまとまらないわ。
とりあえず、人付き合いで気をつけてることがあるのでそれで締めます。
人の話だけで人を判断しない。
あと、大勢の中の1人としての印象と、1対1で話した印象は全然違うから、片方で判断しないってところですかね。


そういえば途中で「食べられる物が多い方が得」などと好き嫌いについていろいろ書きましたが、自分の感想であり他の人がどうとかってことではないです。
嫌いなものが多くても食事は楽しいもののはずです。
また個人的な考えになってしまいますが、嫌いなものがあると好きなものへの気持ちが強くなって、よりおいしく食べれるんじゃないかと思います。
勝手な意見を書いて、なぜか言い訳みたいになってしまったところで終わります。

とりあえず投稿(すがる)

書くネタがない。
僕は日記を書きたかったが、ふと1日を振り返ると、特に変わったことはない。
毎日が全くの同じ繰り返しというわけではないのだが、自分は感受性が人より乏しいのか気づきが足りない。
また書くネタが見つかってもそれを言葉にまとめて形にするのは僕には大変苦痛だ。
自分が何を言いたいのか自分でも分からない。
何を書けば良いのかも分からない。
なんかもう疲れたので推敲もせずこのまま投稿しよう。

そんな程度の気持ちなら(とまと)

たまにコンビニデザートのようなものを買って、家族で食べることがあります。
たいてい人数分違う種類を買ってくるのでひとつ選ばないといけません。
そこで「これでいいや」などと言ったときに、次のように注意されてしまいました。
「そんな程度の気持ちなら食べなくていい!」


これを言った相手は別に怒ったわけではなく、軽い突っ込みみたいなものでしたが、この言葉はなぜか心に残りました。
ちなみにデザートは取り上げられらることはなく、ちゃんと食べることができました。


なぜ「これでいいや」が突っ込まれたのでしょうか。
そう、"で"と言ってしまったからです。
これ"で"いいというと、妥協して仕方なくという印象を相手に与えてしまいます。
自分としては消極的な意見を述べて、誰かと被ったら変えようかなーという考えだったのですが、いやな気持にさせてしまったのなら失敗でした。
このような言葉に怒りや引っ掛かりを感じるのは、言葉の意味を大切にしている人か、デザートを選ぶことをとても重要だととらえている人だろうと思います(と適当に茶化して言うとまた怒られてしまいそう……)。


ただ、言われた相手が家族だったので素直に聞くことができましたが、普通は友人でも言うのは止めたほうがいいですね。
「飲み物何にする?」
「えーと、じゃあコーヒーでいいや。」
「コーヒーでいいとは何事だ!お店に失礼だろ!真剣に選べ!!」
「(えー何だこの人めんどくさい)」
となってしまいます。
……こんな茶番を書かなくても言いたいことが伝わった気がしますが。


だんだん何が言いたかったのか分からなくなってきました。
「お菓子であろうと選ぶときは真剣に」ってことではない気がします。
たぶん、普段は曖昧な言葉を使いがちですが、相手に広く意味を取られて正しく意図が伝わらなかったり、不快にさせてしまったりするよ、ってことでまとまるのかな。
自分の意見をはっきり述べるのはどうしても難しく感じてしまいますし、ここの文章も結構「~かな」のような押しの弱い言葉を使ってますが、自分の選択に自信をもっていきたいと思います。


今回はかぎかっこをたくさん使ったので、なんだか記事全体が騒がしくなっていい感じです。
また、前の「怒る 叱る」と同じように「これで これが」と調べてみると、この記事と似たようなことが書かれていました。
ブログっていろんな記事を見ることができてすごいコンテンツだなと思います。
と、感想を書いているとまた話が散らかるので終わりにします。

焼き付いている景色③(たきで)

 

その日、僕達は近くの村の人気の無い公園の貸しグラウンドでバスケをしていた。

季節は夏の終わりで、少し暑さも和らいできた頃だった。

 

貸し時間を終え、夕方になったので自転車にまたがり帰ることにしたのだが、帰り道T字路をどちらから来たか分からなくなった。

…のだけれど、僕達はノリで道を選んでペダルを漕いだ。

 

あの頃の僕達には間違っていようが、冒険なら大歓迎という気概があった。

案の定、道が違うことには気づいたのだが、

もはや帰り道なんてどうでもよかった。

こっちの方角に進めばいつか家の方につくだろうという感覚に任せて、

知らない道をどんどん進んでいった。

 

進んでいくと次第に坂道になり山を登り始めた。自転車を降り、自転車を押して、歩いて進むことになった。周囲には家が現れ始め気づけば知らない村の道を進んでいた。 

知らない人達、知らない子供達を横目にして、友達が

「ここどこの世界!?」

と言ったことをよく覚えている。

 

それでも僕達は進んでいった。

(もう帰る頃合だ、少しずつ日が落ちてきてる。このまま帰れないと少し困ったことになる。)

そう思いながら進んでいるとやがて上り坂の終わりが見えた。

 

そこまで登り、山の上に達した時、目の前にはまだ見たことのない広大な景色が広がっていた。知らない土地、知らない村と共にそれを包み込むように、少し紫が混じった夕焼け。その紫色がなんだか不穏な空気を醸し出していて、期待とともに少し不安な気持ちがくすぐられた。

(この先の村にこのまま降りたら家に戻れるか分からない。だけど、降りればまだ知らない場所にいける、知らないことと出会える。)

そんな胸の高鳴りを強く感じていた。

 

いつも通りなのは隣にいる仲間達だけで、

周囲は何もかも全く知らない場所。

そんな場所に自分達は冒険してこれたんだと思うと充足感があった。

 

僕の心に未だ焼き付いている景色の一つだ。

 

 

あの道も今じゃ車で行けばあっという間だし、歩いていた村も降りた先の村のことも今はよく知っている。

狭い世界なのに、広い世界を冒険して

成し遂げたような気分になれた。

それだけで僕達の毎日は楽しかった。

焼き付いている景色②(たきで)

今日は、先日書いた「焼き付いている景色(たきで) - 日々の徒然」について、具体的な思い出を書こうと思う。今後あと3回くらい続くかもしれない。

「蛍祭りの帰り道」

僕の地元の近くの村では毎年6月になると廃校舎やそのグラウンド、駐車場、隣の神社を利用して蛍祭りが開催される。
会場の脇には道路を挟んで山沿いに小川が流れており、その川の一帯に蛍が舞う。蛍祭りはその名の通り、地元民が集まりそれを楽しむという趣旨の祭りだった。

中学校になって移動範囲が広がった僕は、中学校で新しく出来た友達と共に蛍祭りに行くことになったのだった。
夕方、未知の行事にわくわくしながら友達の家に行き、祭りの頃合になるまで遊んだ。
小学校まで同じ友達しか知らなかった僕は、新しい友達と遊ぶのが新鮮でとても楽しく、嬉しかった。これからもずっと皆で遊んでいけるのだと思うと心が踊った。
祭りの時間になると不運なことに雨が降り始めた。初夏特有の夕方から降る雨だ。生ぬるくアスファルトと土臭い湿気が僕らの肌にまとわりついた。
残念ながらその日は蛍を見れないかもしれないけれど、僕達は雨合羽を着て、自転車で祭り会場に向かった。

祭りの場所につくと、雨天のため校舎の中が会場になっていた。
残念ながら小川沿いに自転車を漕いで、祭りに向かう途中、蛍の姿は見られなかった。

中に入ると、中学校で新しく知り合った友達、先輩、まだ知らない子など色々な人がいた。その建物をうろちょろしたりみんなではしゃいでたりしたら、あっという間に楽しい時間は過ぎて行った。

新しい友達と仲良くなり、まるで冒険みたいに遠くまで皆で自転車を漕いで行ったその日は、自分の世界が広がって新たに始まったような、そんなわくわくするような希望をはっきりと感じていた。

そうして、(蛍を見れなかったのは残念だったけど、今日も楽しかったし、これからの毎日も楽しみだな。)と思いながら、僕は仲間と帰路についた。

建物を出ると、雨が降りやみ、川沿いの道には霧がたちこめていた。
雨がやんだ坂道を皆で自転車でくだるすがすがしさの中で、

霧の中に光がいくつも見えた。

たくさんの蛍が飛んでいて

その光が霧の中で反射してきらきらと

儚げに美しく輝いていた。

そのそれまで見たことのない幻想的な風景に思わず息を呑んだ。


小川沿いに坂を下り、仲間と別れた後も、
この仲間達とこの先も、
ずっとずっと自転車を漕いで、
知らない場所へと冒険して、
こうやって新しいことをどんどん見つけていけるものだと、そう思っていた。

これが今もずっと僕の心に焼き付いている景色の一つだ。

兆し(たきで)

「生活を送る中であなたが嬉しいと感じるようなことは何?」

と聞かれたとしたら、
僕は誰かから連絡が来た時や何かに誘ってもらった時がとても嬉しい。

基本的に僕はむしろ誘う側、巻き込む側の立場が多くて、
周りには積極的に連絡を取ってくるような仲の人があまりいない。
だからこそ、割と周りから企画する側としてありがたがられるのだが
僕が何もしないと、僕の周りでは何も起きなくなってしまう。

だから、そうやって周りの人を誘ってくれる人、積極的な人と親しくなりたいものだと常々思っている。

いや、これは誤りかもしれない。

むしろ相手の問題ではなく、自分自身が誘ってもらえるような人間になりたいと思っている。
逆に巻き込まれてばかりが悩みの苦労人もいるだろうけれど。

誰しもそうだと思うが、やはり承認欲求というものがあるのだ。
誘ってもらったことで
(誘うとしたら君しかいない。代わりはいない。)と、認めてもらえたような気持ちになれる。

例えば、誰にも自分からは連絡を取らないまま1週間過ごしたとして、僕には恐らく家族くらいしか連絡が来ることはないだろう。
何人から連絡が来るか、何かに誘われるか、その数が、どれだけ周りに認められているか、必要とされているかの指標に感じてしまう。
さすがに偏った考え方だけれど。

それゆえ、誰にも会わずに、誰とも連絡を取らずに1日を終えた時、
(今日、誰か僕のことを思い出してくれた人、考えてくれた人っているのかな。もし1人もいなかったならば僕の1日は、僕の存在は僕以外の人々の世界にとって無かったも同然なんだな。。。)と不安になってしまう。

先日の別れの話でも書いたが、
最近親しい人との別れが続いて、
人間関係のほつれには敏感になっている。
今、親しくしてくれている人達のことを大切にしたいと切実に思っている。
そんな人達がいてくれて、本当にありがたいと感じている。

最近学部の友達に旅行に誘ってもらった。
自分の企画以外で友達と旅行に行くのは久しぶりで、この上なく嬉しい。

院試を乗り越えれば旅行に行ける。
ここ最近、人ともろくに会わず、勉強と研究のことしか考えられない、暗くて苦しい日々だったけれど、その約束のおかげで遠くに少し光が差した。
今はその光の道筋を辿って泥水啜りながら
無様に地を這ってでも頑張るしかないのだ。
現状から次の場所へと、
前に進ませてくれるのなら、
照らしてくれる光は何だっていい。